★★ 目次INDEXはこちらです。 ★★
     【アップ情報】 旧陸軍桶川飛行学校(2)(12.5)
     【アップ情報】 旧陸軍桶川飛行学校(1)(11.30)
     【アップ情報】 千葉県栄町探訪(4)(10.29)
     【アップ情報】 千葉県栄町探訪(3)(10.27)
     【アップ情報】 千葉県栄町探訪(2)(10.25)
     【アップ情報】 千葉県栄町探訪(1)(10.24)

中部ツーリング(25)上田城2014年09月03日

■ 上田合戦の勝利を抜きにして上田城は語れない

11時半頃に松本市を離れ、山をいくつも越えて上田市へ向かいます。

直線距離ではそんなに遠くはありませんが、山岳ルートですから走行距離は結構あります。
そして、コンビニがほとんどないってのが山岳ルートの特徴です。

自分のバイクツーリングがコンビニに支えられていることに何気に気付いたりします。。



午後1時頃に上田に到着です。松本から1時間半も掛かってしまいました。
上田といいますと、アニメ映画「サマーウォーズ」の舞台にもなりました。


さて、上田城は上田藩主・真田昌幸1583年に築城した城です。
元々私は長野県民ですから、上田には何度も来ていますが、ここを訪れたのは今回がわずか二回目です。
かれこれ20数年前くらいになりますか。。。
その時は城門はありませんでした。この城門は1994年に復元されたものです。
城門を挟んでいる二つの櫓は1949年に再建されたもの。

ちなみに「サマーウォーズ」では主人公が訪れる旧家の門が、この城門をモデルにしていますね。


戦国時代、この上田城を舞台にして二度の合戦がありました。
1585年第一次上田合戦と、1600年第二次上田合戦です。
第一次では7000人、第二次ではなんと3万8千人の徳川軍に攻めこまれていますが、これを2000人程度の真田軍が撃退しています。
しかも徳川軍は1584年の小牧・長久手の戦いで、豊臣軍に勝っていますからこの時点で日本最強の軍隊だったのです。
山の頂上にある岐阜城でさえも落とされているというのに、平地にありながら天下の徳川軍に二度も勝利している上田城ってどんな城なのか?
それを改めて体感したいというのが、訪れた目的でした。

藩主・真田昌幸は「真田十勇士」で有名な真田幸村の父親です。
真田昌幸には二人の息子がいて、長男が真田信之、次男が幸村。
関ヶ原の戦いの時、二人の息子はそれぞれ東軍・西軍に分かれることになりますが、これはどちらに転んでも真田家が存続できるようにしたためだと言われていますが、婚姻関係からそうせざるを得なかったという面もあるようです。
1985年に「真田太平記」という大河ドラマが放映されていて、動画サイトで部分的に見ることができるみたいですが、1985年というと、第一次上田合戦からちょうど400年に当たる年なんですね。
ちなみに、真田昌幸は丹波哲郎、信之は渡瀬恒彦、幸村は草刈正雄が演じていました。


さて、城門を抜けると、いきなり神社です。

真田昌幸・幸村をご祭神とする真田神社です。
城の中に藩主を祀る神社があるのは、米沢城でも見たことがあります(上杉神社)。 → 東北ツーレポ(2)米沢

さらに進むと、真田家の兜のモニュメントがあったりします。

城内には真田家の家紋である “六文銭” があちらこちらにありました。
ちなみに六文は「三途の川の渡り賃」だそうです。
一応、気になるので現代の貨幣価値でいくらぐらいかを調べてみると、一文は約12円なんですって。 → 古文書ネット
つまり、三途の川の渡り賃は、72円程度ということになりますか。。。



上田城には天守がありません。城内には本丸があるのみで、元々、天守を持たない城でした。
焼失した後、再建されていないんだと、ずっと誤解しておりました。。。

天守のようなシンボル的なものなど必要とせず、ただただ要塞的な機能を追求したってことなんでしょう。
そういうところにも徳川軍を二度も撃退した要因があるような気がします。

さて、城門を出て外側から見てみます。
↓これが南櫓。城門の左側に見えてた櫓です。

結構高い位置にあるんですね。
そしてこの100mほど左側に↓西櫓があります。

壁が三段になってるのがわかりますね。上段・下段が石垣で、中段は土がむき出しになってます。
おそらくこれも戦略的な構造なのでありましょう。

当時の上田城はこの石垣に面して千曲川が流れていたようで、天然の堀の役目を果たしていたそうです。
地形をうまく利用した場所に築城されていたわけですね。
今ではその頃の地形の面影はまったく残っていません。

↓これは東側にある、かつて堀だったところです。

今では遊歩道になっています。
この遊歩道をさらに進んでいくと。。

なんと電車のホームがあります。
昭和3年から47年まで、この遊歩道には電車が走っていたのです。
このホームは、かつて公会堂下駅という駅のホームでした。



上田城が実戦向けであることは、なんとなくわかりました。
でもそれだけで圧倒的な戦力差のある徳川軍を二度も撃退できるはずもありません。
やはり、最大の要因は藩主・真田幸昌の戦略でした。

調べてみると、上田城以外にいくつかの小隊を隠していたり、密かに千曲川を堤防で堰き止めていて、それを決壊させたりしています。
それに先駆けて「郷土防衛に功があった者には身分に関係なく、土地100石を与える」という通達を藩内に出していて、現代風に言えば “市民戦争” という形をとったのも大きかったと思われます。
しかし、御触書だけで民衆が戦に参加するはずもありません。根っこには藩主と民衆の信頼関係が出来上がっていたのでしょう。真田幸昌は農民に土地の所有を認めていたので、農民にとってもまさに領土防衛であったわけです。兵力2000といってもその裏にはその数倍の隠れ兵力があったということが大きかったと推測します。


さて、関ヶ原の戦いでは東軍・徳川軍が勝利し、西軍についた真田幸昌・幸村は死罪となるところでしたが、東軍についた長男・信之の嘆願でこれを免れ、高野山への幽閉で済まされます。この辺りも真田家をあえて二手に分けた成果が出ていますね。

真田幸昌は11年後に高野山近くの九度山という場所で病死することになります(享年65歳)が、その間にも長男・信之からの生活費の援助を度々受けていたようです。

次男・幸村は幸昌の死から3年後に流刑地を脱出し、大坂冬の陣に参戦し、またも徳川軍を撃退します。

長男・信之は上田から領地替えとなり、石高(10万石)はそのままで、松代藩(長野市松代町)に移り、幕末まで存続します。

↓当然ですが、長野市松代町には今も至るところに “六文銭” のマークを目にします。

以前は、ただ何となく訪れただけでしたが、歴史に興味を持って訪れると、派手ではありませんが、なんとも奥の深い上田城でありました。

次回は、すぐお隣にある小諸城のレポートです。


ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村