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京都観光(1)西本願寺2014年11月22日

2014年11月22日(土)

新選組を訪ねて西本願寺へ

今回はバイクツーリングではありません。
仕事で京都へ行く用事があったので、翌日に京都観光をしてまいりました。
京都へは数回来てるんですが、観光目的で丸一日費やしたことはこれまでなかったので、いい機会です。

ただ、普段はバイクで移動しながら観光しているので、バイクがないことの不便さが身に染みます。
元々、観光目的で来たわけではなかったので、どこに行くのかも明確に決めていませんでしたが、とりあえず京都駅から徒歩圏内にしようと思い、地図を見ながら決めたのが西本願寺二条城です。当日の朝に決めました。

↓位置関係はこちら。

二条城はかなり遠いですが、普段のバイクツーリングと違って、目的地は二つに絞ったし、時間に追われることもないのでのんびり行きます。
しかし、駅でコインロッカーが満杯で入れられなかったのは、かなりの負担となりました。。

↓京都駅前はこんな感じ。

紅葉シーズンの3連休ですからねぇ。。人の数はすごいです。
しかし、いつ見ても京都駅は古都らしくないよなぁ。。

↓京都タワーだとコインロッカーがあるかも。。と思って行ってみました。

すると、入口に↓こんなものが。。

京都タワーも私と同い年なんですって。新幹線に合わせて開業したんですね。。


さて、結局コインロッカーはなく、5kgのカバンと共に歩くことになりました。

↓道すがら、心に染み入る風景をさっそく発見します。

朽ちかけたレコード店。。
このまま建物が朽ちずにいてくれれば、100年後には文化財に指定されてもいいような気がします。



↓さて、やってきました西本願寺。

元々は石山本願寺として大阪にありましたが、その後、今の和歌山市大阪府貝塚市に移転した後、1591年豊臣秀吉がここに土地を寄進しました。石山本願寺跡に建てられたのが大阪城です。

通りを挟んで東本願寺がありますが、こっちは1602年徳川家康が土地を寄進したことに始まります。本願寺(一向宗)はその大きな勢力を背景に、時折反乱を起こすことがありました。これが「一向一揆」と言われるもので、石山本願寺と織田信長の争いは、石山合戦と言われ11年間に及んでいます。
しかし、本願寺は元々内部対立が激しかったため、徳川家康はそれを利用して西と東に分裂させ、その対立の構図を固定化する狙いがあったようです。さすが家康は策士ですなぁ。


西本願寺にやって来たのは、参拝のためでありません。

幕末に西本願寺の一角を新選組が屯所として使っていたので、それを観に来たのです。
でも境内にはそれらしいものは見つけられず、もらったパンフにも一切記載はありませんでした。

諦めて、寺を出て北へ歩くと、↓これに出くわします。

太鼓楼という建物です。ちゃんと説明も付いていました。中からではなく、外から分かるようになってたんですね。。

新選組が使っていたのは、この太鼓楼とその裏にあった北集会所(しゅうえと読むらしい)らしいですが、北集会所は解体されていて、ここに現存するのはこの太鼓楼だけのようです。

↓中には入れません。。。

ちなみに、NHKの大河ドラマ「新選組!」(2004年)に北集会所の様子が出てきます。
↓これ。

一応、西本願寺の境内に垣根を立てて、きっちり区分はされていたようです。
蛇足ながら、「新選組!」はNHKの実施した投票では人気大河の第二位です。


新選組には、法度に背けば切腹(そうでなければ暗殺)という規律がありましたが、西本願寺を屯所にしていた2年3ヶ月の間にここで切腹したのは、勘定方・河合耆三郎一人だけです。
大河ドラマでは隊士のために流用した50両を返せなかったということになっていましたが、ホントの理由は不明です。
西本願寺としては、境内で切腹なんてトンでもないことだったでしょう。

↓おまけに境内で大砲撃ったり、銃撃ったり。。

さすがに大砲訓練は寺側の訴えにより、会津藩が禁止したそうです。

最終的には西本願寺が工面して、ずっと南の今の京都駅近くに新しい屯所が建てられ、新選組はそちらに移動することになりました。(現存していません) 新しい屯所に移動してわずか4ヶ月後大政奉還です。そしてその半年後には局長・近藤勇が処刑されることになります。

新選組が出て行った後、北集会所は直ちに解体されますが、他に大講堂が建設予定だったので、解体した資材はその建築資材として温存されます。
しかし、しばらくして同じ宗派の亀山本徳寺(兵庫県姫路市)の本堂が焼失したため、その資材として流用され、北集会所は姫路に移築した形になりました。

↓これが姫路市・亀山本徳寺本堂。

おそらくドラマでロケに使われてるものと推察されます。
現在も新選組が柱につけた刀傷が残っているそうです。

【追伸】
大河ドラマ「新選組!」をよくよく見てみると、撮影協力として「本徳寺」がクレジットされていました。

↓これ


亀山本徳寺がロケで使われていたことが確認できました。



さて、ほんの少し前に西本願寺から新選組絡みの文書が発見され新聞記事になっていました。

土方歳三の苦悩生々しく 京都・西本願寺で新選組文書発見
(2014年9月2日 京都新聞)

これによると、当時の新選組は200人ぐらいいたらしいです。
西本願寺から場所を借りるだけでなく、500両の借金もしてたらしい。。

新選組:待遇改善を直談判した土方歳三 西本願寺から文書(2014年9月3日 毎日新聞)

この記事からは、500両の借金は西本願寺に移って11日後ということがわかります。
西本願寺が負担したのは200両で、残りは商人などから集めたらしい。
新選組がまだ会津藩預かりだった頃ですね。会津藩はあまり費用を出してくれなかったのか。。
正式に幕府の組織になるのは、この2年後です。

上の二つの記事は、主に土方歳三の苦心してる様がわかる文書として伝えています。


ところが朝日新聞の見出しは↓これ。

新選組駐屯、迷惑でした 西本願寺の文書見つかる(2014年9月3日 朝日新聞)

さっすが朝日。見出しのつけ方が違う。


次回はさらに北へ歩いて二条城のレポートです。


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