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中部ツーリング(3)登呂遺跡2014年08月30日

図らずも三保の松原を堪能してしまった後は、西へ少し走って登呂遺跡を訪れます。

登呂遺跡といえば、必ず教科書に出てくる超メジャーな弥生時代の遺跡ですね。
しかし、1986年に佐賀県で吉野ケ里遺跡が発見されて以来、登呂ブランドが低下してきた感があります。

↓登呂遺跡の駐車場へ到着です。有料駐車場でした。

しかし、二輪は無料でございます♪

ただ、駐車場からはしばらく歩くことになります。

この道の右側も実は登呂遺跡の一部です。↓

奥に見えるのは東名高速道です。登呂遺跡は1943年に発見されていますが、このエリアは1965年に東名高速道建設時の調査発掘で発見された部分なのです。

さて、これ↓が登呂博物館の屋上から見た、登呂集落の全景です。

現代建築に圧迫されてなんか窮屈そうな印象を受けますね。
弥生遺跡らしく、ちゃんと稲作も継続されております。これがなけりゃ弥生じゃないですからね。。
ちなみに “弥生” の語源は、明治時代に土器が見つかった東京の弥生町に由来します。

さて、これが↓登呂博物館。2010年にリニューアルされた立派な建物です。登呂ブランドの意地を感じます。


博物館内の展示物をいくつか紹介します。写真撮影OKは確認済み。

縄文遺跡では、土器・石器・骨器などが中心でしたが、登呂遺跡では縄文遺跡では見られないものが出土しています。
それがこれ↓

木製の道具類です。これはクワでございますね。約1900年前のもの。よくぞ残っててくれました。

↓これは刃物の跡が残った工作台です。

鉄製の刃物も使っていたようなのですが、登呂遺跡からは鉄具は出土していません。鉄が腐食しやすい地質なんだそうです。

個人的に面白いと思ったのは↓これです。

イルカの頭骨です。石川県の真脇遺跡(縄文遺跡)で大量のイルカの骨が出土していましたが、登呂遺跡でも出土してるんですね。
縄文時代は狩猟生活、弥生時代は農耕生活というイメージがありますが、弥生時代でもキッチリ狩猟はしていたわけです。
展示はこの一つだけですし、解説もありませんから見落としがちですが、結構重要な出土品だと思います。


さて、博物館を出て再現集落へ行ってみます。その前に、三内丸山遺跡の縄文式住居を復習しておきましょう。

↓これが縄文時代の竪穴式住居。

で、↓これが弥生時代の竪穴式住居。

ほとんど一緒ですな。。住居建築についてはあまりイノベーションがなかったようです。
でもただ一つだけ、縄文時代と違う点があります。
それが↓これ。

住居跡の盛り土です。たぶん竪穴を掘った時の残土を盛り上げたものでしょう。これは三内丸山では見られませんでした。

ちなみに登呂遺跡の集落は、吉野ケ里遺跡のような環濠集落ではありません。環濠集落は防御のため集落を堀で囲ったもので、集落どおしの争いがあったことを裏付けるものですが、それがないということは、この辺りは九州地方よりも平和だったのかもしれません。

あ、博物館で見つけたものをもう一つ。

↓登呂遺跡発見時の新聞です。

昭和18年(1943年)ですから、大東亜戦争のド真ん中。この頃の新聞って結構漢字にカナがふってあるんですね。。

登呂遺跡が発見されたのは、ここが軍事工場の建設予定地だったからでした。当時、この辺りにはエンジンやプロペラなどの飛行機関連の工場がたくさんあったのです。
発見後、戦況が悪化し、発掘作業は中断されました。再開されたのは、終戦2年後の1947年です。
発見時の第一次発掘作業の主体は静岡県でしたが、再開時の第二次発掘作業は登呂遺跡調査会が結成されて主体となりました。
この調査会が発展して、翌1948年に日本考古学協会が創立されて現在に至ります。

つまり、登呂遺跡は日本の学術的遺跡発掘体制を築いたきっかけとなったわけです。
この歴史を知ると、登呂ブランドは永遠に不滅だと思えてきます。


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