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中部ツーリング(12)安土城址(2) ― 2014年08月31日
もうすぐかも、もうすぐかも....と思わせながら、なかなかたどり着かない天守址。
へろへろになりながら石段を登り終わると、↓こんな風景が現れました。
へろへろになりながら石段を登り終わると、↓こんな風景が現れました。
本丸御殿跡です。築城当時は木はなかったと思いますが、木がなかったとしても他の城と比べてそんなに広いわけではありません。
普通なら本丸御殿が城主の住居兼執務場所なんですが、安土城は違います。
織田信長は天守に住んだと言われていて、本丸御殿は天皇をお迎えする迎賓館的な建物だったと考えられているそうです。
この時の天皇は、第106代・正親町(おおぎまち)天皇。 安土城完成時の御年は62歳。こんな場所にある本丸御殿に招待されても甚だ迷惑だったのではないかと思いますが、天皇が自分の足で登ってくるわけないので、神輿を担ぐ人たちが一番迷惑を被ることになりますね。しかし、天皇が安土城に招かれたという記述はどこにもないので、結局のところ本丸御殿は本来の役割を一度も果たせずに焼失したと思われます。
↓本丸御殿を通り過ぎると、また石段があります。
そして10mほど進むと、ようやくこれ↓が。。
天主閣址。。安土城では「天守」ではなく「天主」と書いたんですね。これは信長が安土城の前に居城にしていた岐阜城に由来します。岐阜城では、金華山の麓にあった御殿を「天主」、山頂にあった城を「天守」と区別したそうです。あー、面倒くさい。
さて、いよいよ到着しました。安土城天主跡です!↓
安土城は地上6階、地下1階の7階建てです。ここは地下1階部分になります。床面に規則正しく配置されている石の上に、天主を支える柱が建っていました。
↓映画「火天の城」でこの地下のシーンが出てきます。
築城当時は、周囲の石垣はもっと高くて、地下一階分の深さがあったのです。
地下1階部分はそんなに広いとは感じませんでしたが、この上の地上1階部分の面積はこの2.5倍あったとされます。
現在は石垣が崩れてしまっていて、その広さを感じることはできません。
その崩れた石垣の上に立ってみます。↓
遠くに琵琶湖が見えますね。
石垣が崩れた理由はいろいろあるでしょうが、その理由の一つが樹木の根っこであることがよーくわかります。
さて、安土城は織田信長が岐阜から安土に本拠地を移し、1576年から建築を開始して3年後の1579年に完成しました。
織田信長は安土城の完成から3年後の1582年6月2日に本能寺で死ぬことになりますが、その13日後に安土城は焼失してしまいます。
天下一の安土城はたった3年しか存在しなかったのでした。
出火の原因は様々な説がありますが、いまだに確定していません。
この謎の安土城焼失を題材にした映画が↓これです。
劇場版「タイムスクープハンター 安土城最後の一日」。
この映画では、本能寺の変で無人となっていた安土城を山賊が占拠したことが原因になっていました。
焼失した城は全国にたくさんありますが、安土城は焼失後の経緯が非常に特異です。
天主と本丸を焼失し、城主までも失った安土城ですが、二の丸御殿は焼け残ったため、清州会議で正式に織田家を継いだ信長の孫・織田秀信が1年だけ住んだようです。ただし、この時織田秀信はわずか3歳。。幼名は三法師でした。
1584年には秀信が大津市の坂本城に移ったため、翌年には廃城となりました。
その後、ここに調査の手が入ったのは、なんと360年後の1940年(昭和15年)です。大正時代にも保存の動きはあったようですが、発掘調査までには至りませんでした。
天下一の城がそびえていたこの安土山ですが、360年も放置されると、遠目には普通の山にしか見えないぐらい自然に飲み込まれていったわけです。
↓自然に飲み込まれている様子です。
石垣に苔が生え、雑草が覆いかぶさっています。これじゃあ、遠目に普通の山に見えても仕方がない。
信長が安土に築城したのは、この地が天下取りに適していると判断したからなんでしょう。
しかし、信長の死後、この安土を本拠地にした大名はいませんでした。それが不思議です。
さて、↓これが二の丸御殿跡。
ここを入って右へ進むと、信長廟があります。↓
羽柴秀吉が信長の遺品を埋葬し、一周忌(1583年)にここで法要を行ったと資料には書いてあります。
・・ということは、その時には二の丸御殿はすでになかったということになるので、これは間違いではないでしょうか。
石の積み方もこの時代の積み方ではないように思えます。
信長廟の手前にあった石塀がこれ↓
完全に「切り込みハギ」の手法です。この時代にはない積み方です。
信長廟はかなり後年になってから作られたものと思わざるをえません。
さて、この後は来たルートとは違うルートで山を降りていきます。
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