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京都観光(2)二条城1 ― 2014年11月22日
二条城を純粋に観光で一周する
西本願寺から北に約2kmほど歩くと二条城があります。修学旅行の定番ではないでしょうか。
私も遠い遠い昔に修学旅行で訪れたことがあります。息子も中学の修学旅行で来たそうです。
ただその時は、日本史に深い関心がなかったため、なんとなく回って終わり....ってな感じでした。
しかし、京都タワーと同い年となった現在は違います。
日本史を肌身で感じながらじっくりと堪能してまいりました。
二条城は1601年、徳川家康の命で作られた城ですが、1867年に大政奉還が行われたため、所有者が江戸幕府から朝廷に変わり、名称が二条城から「二条離宮」となります。その後、昭和に入ってから京都市の所有となり、「元離宮・二条城」として一般公開されています。
基本的に徳川将軍が上洛するときだけ使われる城です。まぁ別荘みたいな位置づけでしょうな。。
まず目にするのが、↓この櫓。東南隅櫓です。
西本願寺から北に約2kmほど歩くと二条城があります。修学旅行の定番ではないでしょうか。
私も遠い遠い昔に修学旅行で訪れたことがあります。息子も中学の修学旅行で来たそうです。
ただその時は、日本史に深い関心がなかったため、なんとなく回って終わり....ってな感じでした。
しかし、京都タワーと同い年となった現在は違います。
日本史を肌身で感じながらじっくりと堪能してまいりました。
二条城は1601年、徳川家康の命で作られた城ですが、1867年に大政奉還が行われたため、所有者が江戸幕府から朝廷に変わり、名称が二条城から「二条離宮」となります。その後、昭和に入ってから京都市の所有となり、「元離宮・二条城」として一般公開されています。
基本的に徳川将軍が上洛するときだけ使われる城です。まぁ別荘みたいな位置づけでしょうな。。
まず目にするのが、↓この櫓。東南隅櫓です。
四隅の櫓のうち、これと西南隅櫓の二つが現存し、他は焼失しています。どちらも重要文化財です。
ちなみに同じ名称の櫓が名古屋城にもあります。
↓これは江戸城の巽櫓。そっくりですよねぇ。
↓入口の東大手門です。重要文化財。入場料は大人600円でした。
二条城への一般観光客の入口は、この東大手門だけです。
今年12月2日から2月28日まで改修工事のため閉鎖され、入口が北大手門だけに変更される予定です。
↓東大手門を抜けると番所があります。
門を抜けてすぐ番所が現存している城って珍しいです。江戸城、掛川城、丸亀城ぐらいじゃないでしょうか。
たいていは現存していても他へ移築されたりするんです。廃城になれば邪魔っつーことなんでしょうかね。
↓二の丸御殿前の唐門です。重要文化財。
元離宮ですから、菊花紋章が燦然と輝いておりました。
↓唐門を抜けると、国宝・二の丸御殿です。
初代・徳川家康が将軍就任の祝賀の儀を行なったのが、この二の丸御殿です。当時はまだ本丸御殿は建築されていませんでした。そして、15代・徳川慶喜の大政奉還の決定もここですから、江戸幕府はこの二の丸御殿に始まり、二の丸御殿で終わったということになります。
ちなみに徳川慶喜の将軍在位期間は徳川将軍の中で最も短い1年間だけでしたが、在位中はずっと二条城に居て、一度も江戸城に行っていません。幕末の動乱期にその現場から離れることができなかったんだと思います。
鳥羽伏見の戦いの最中で、いきなり江戸へ帰ってしまい、ヘタレ扱いされることもあるようですが、よくよく考えてのことでしょう。慶喜は将軍に就く直前、禁門の変の時に長州勢相手に斬り合いをしています。徳川将軍の中で斬り合いの経験があるのは、家康と慶喜だけでしょう。決してヘタレな人ではないと思います。
ちなみに調べていて判明しましたが、今日11月22日は徳川慶喜の命日だったのでした!
徳川歴代将軍の中で最も長寿で、77歳でした。なお、唯一仏式葬儀ではなく神式葬儀だったので、墓は寺にはありません。
それと意外にも、慶喜は明治天皇の義兄にあたるんだそうです。お互いの妻どおしが義理の姉妹関係にあるんですって。知らなかった〜
↓さて、これが大政奉還の図です。教科書に必ず載ってますね。
将軍が座っているのが一の間。幕僚たちが座っているのが二の間です。
↓映画「壬生義士伝」(2003年)の大政奉還のシーンです。
幕臣たちの配置がちょっと違いますね。。。
残念ながら、二の丸御殿内は撮影禁止でした。
でも二条城のホームページで「パノウォーク」というリアル体験ができるようになっています。〔パノウォークはこちら〕
↓その一シーンがこれ。
ここが大政奉還を決定した場所です。徳川慶喜目線で見るとこういう風景になります。
日本史の大きな転換点となった現場を実際に見られるのは感動モノでした。(実際には御殿内部から外の景色は見えません。)
壁や天井など、いたるところに障壁画がありますが、1016面が重要文化財に指定され、その保護のため複製と取り替える事業が現在進行中です。本物は別のところに保蔵してあり、公開されてます。
↓二の丸御殿を観た後は、東橋で内堀を渡って本丸御殿へ。この本丸櫓門も重要文化財。
本丸は三代・徳川家光の時に作られました。五層の立派な天守もあったそうですが、1750年と1788年の大火で本丸内の建物はすべて焼失してしまいました。
朝廷の所有となった明治時代に、京都御所にあった桂宮御殿を移築して、本丸御殿を再建します。
↓これが本丸内にある天守台。五層天守が建っていたにしてはちょっと狭いような気がしますが。。
↓本丸御殿です。残念ながら一般公開されていません。重要文化財。
一般公開されていない理由は、耐震強度不足が判明したからだそうです。2006年までは公開されてたらしい。
..ということは、二の丸御殿は耐震強度があるということか。。つーか、一般公開されてるところは全部そうなのか??
↓本丸御殿を抜けると、外堀に西橋が架かっています。建物はありません。
↓本丸を出てすぐに西門があります。ちょうど入ってきた東大手門の反対側になります。
ただし、外堀に架かる橋はないので出入口としては機能していません。
↓北側にまで来ると、もう一つの出入口、北大手門があります。これも重要文化財。
12月2日からここが出入口になるわけですね。
しかし、進入禁止にしてる理由が「緊急車両の出入口」って・・それはちょっとないんじゃないですか? どんな緊急なんですかね?
さて、これで二条城をぐるりと一周したことになり、東大手門まで戻ってきました。
そして、そこで何気なく目にした光景をきっかけに、調査のためもう一度一周することになったのでした。
その内容は次回レポートいたします。
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