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青森ツーレポ(4)弘前城2013年05月01日

さてさて、今回は弘前城についての報告。
今から19年前の昔、初めて東北をバイクツーリングした時
、私はまだ20代でした。
その私に
強烈なインパクトを与えてくれたのが弘前城でした。
弘前城天守の案内板の説明を読み、当時のお殿様の心中を察するや、目頭が熱くなったのを今でも覚えております。

あれから幾年月が流れ、弘前城天守
を建てた津軽寧親(つがるやすちか)御歳45歳と同年代となった私は、再び弘前城を訪れたいと強く願うようになったのでした。


さて、弘前城を語る前に津軽藩に触れねばなりますまい。
津軽藩という名称は正式ではありません。正式には弘前藩です。弘前市が作ったパンフにも津軽藩と書いてあるのですから困ったもんです。
藩主が代々、津軽家であったため、自然にそう呼ばれるようになったんでしょう。津軽藩はいわゆる通称です。
ちなみに、江戸時代、一つの藩が一つの家系で維持されたのは、この弘前藩・津軽家と薩摩藩・島津家の二つのみ。

さて、弘前藩の初代藩主はこの人↓

弘前公園前に君臨しておられる津軽為信はん。
結構ダークな人で、青森・岩手地方を治めていた南部藩の家臣でしたが、お家騒動に乗じて挙兵し、
津軽地方をかすめ取った人です。一般にはこれを謀反と呼びますね。

裏工作も万全で、当時の大将軍・豊臣秀吉にうまく取り入って、領地を認めてもらいました。

ざっくり示すと、↓こんな感じになります。

赤枠内が元々の南部藩領でしたが、青色の部分をかっさらっていったわけです。
そりゃあ、南部藩は激怒するでしょうよ。
当然、この後、弘前藩と南部藩は犬猿の仲になります。
青森県を理解する上で、この歴史は重要です。
青森県は東と西が歴史的に分断されておるんですね。これは言葉にも反映していて、
弘前藩領は津軽弁、南部藩領は南部弁ということになります。←違いはわかりませんが。


さて、晴れて弘前藩が成立し、二代藩主の時に弘前城が築城されます(1609年)。
五層の立派な天守でした。

しかしっ!

完成からわずか16年後(1627年)に天守が焼失してしまいます。
このとき、1615年発布の武家諸法度によって、新規の築城は禁止されておりました。
藩主の嘆きたるや如何ほどであったでしょうや。。

それから200年もの間、弘前城には天守がありませんでした。
時代は徳川太平の世でございます。合戦など起こりえない時代となっていました。
天守の存在意義もずいぶん薄れてしまっていたことでしょう。
しかし、藩主たるもの、やっぱり天守は欲しいんですね。。
1810年、九代藩主・津軽寧親はんが幕府に櫓の改築申請をし、認められます。
天守ではありません。あくまでも(やぐら)の改築です。

そして完成したのがこれ↓


本丸敷地内の角っこにあります。当たり前です。櫓ですから。
櫓の改築として申請している手前、弘前藩ではこれを決して天守とは呼びませんでした。
でも、誰がどう見たって天守のような姿です。
これが司馬遼太郎をして「日本七大名城の一つ」と言わしめた弘前城の正体です。


しかし、外からみると天守っぽくても、
内側から見るとこう↓


全然違う姿になります。
屋根の作りが外側と全く違って超シンプル
入り口の作りも “蔵” に近いですね。
ほんとはもっと立派な入り口にしたかったんだと思います。
でも幕府の目を気にしつつ、櫓の域を出ないようにしたのでありましょう。
法度に背いたと判断されれば、大変なことになってしまいますから。。

19年前、何も知らずにこれを見た時の私の第一印象は「ショボっ!」...でした。。
「なんでこんなにショボいねん。ブツブツ......などと思いながら、
案内板でこれが櫓を改築したものであることを知り、感動したのでありました。


弘前城の模型を見てみると、
この天守の立場がよくわかります↓

赤矢印で示したのが弘前城天守。まんま櫓ですな。しかも本丸御殿から離れてるし。。
本丸御殿は立派なので、執務や居住環境はよかったでしょう。
やはり、ただただ純粋に城のシンボルが欲しかったということなんですね。。。
だから、内から見ると櫓なのに、外からは天守に見えるようにしたんですね。。

わかります、その気持ち。痛いぐらいに。。
私だってきっとそうしたと思います。
あぁ、また目頭が熱くなってきました。。。


中の様子はどうかというと。。

↑これが二階です。広さは.....学校の教室ぐらいでしょうか。
襖で部屋を区切ったり、畳を敷こうなんて考えがまったくないことがわかります。
そりゃそうです。ですから。

次に最上階へ。↓

↑ま、最上階は他の天守でもおおよそこの程度の広さです。遜色ありません。

弘前城には、この他にも櫓が三つ現存しています。そのうち二つをご覧ください。

まずは、二の丸の未申櫓(ひつじさるのやぐら)


も一つ、これも二の丸の辰巳櫓(たつみのやぐら)

今回の収穫は、他の櫓を確認できたことでした。
天守のみならず、他の櫓たちも三層です。弘前城は実に立派な櫓を持った城なのでした。
天守がショボいという評価ではなく、
天守にも転用できるような立派な櫓をいくつも持っている城として評価するべきでありましょう。
しかもそれが現存しているという歴史的価値もあります。

あぁ弘前城。19年ぶりに訪れてもやはり魅惑的でありました。

さて、現存する天守で、似たようなものはないかと探してみました。

ありました。

香川県丸亀市の丸亀城であります↓

おおっ。なんか弘前の香りがプンプンしてまいります。
これも天守ではなく三層のでした。

ただ、弘前と違うのは、三層櫓を天守風に改築したのではなく、初めから天守風の櫓として作られています。
なぜか?
それは立地をみればうなずけます↓

なんともド派手な石垣です。総高60m。日本一の高さを誇る石垣だそうです。
その頂点に位置してるため、櫓を天守風に細工するだけで十分にシンボルとしての機能を果たしているのですね。。
なお、これも当時のまま現存しているものです。

午前10時を過ぎると、弘前城を訪れる人の数も増えてきました。
その中でいったい何人が、津軽寧親はんの苦悩に思いを馳せてくれたでしょうか。
櫓の改築と申請しておきながら、可能な限り天守に見えるように作ってしまおうなんて、
天下の徳川幕府を相手に想像を絶する勇気が必要だったことでしょう。

津軽寧親はん。。違いの分かる45歳だったのか? それとも無謀なチャレンジャーだったのか?
しかし、後世の弘前市民に大変貴重な財産を残したことだけは事実なのでした。


以上、弘前城報告でございました。
すいません。次回も弘前ネタです。。


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